そのひのことごと

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【ネタバレ版】『仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル』レビュー 〜 ゴーダという名の我々が生んだ10年後

公開日が来たので、10年目のオーズ映画解釈感想戦だ~!!

 

ダイレクトにネタバレするので鑑賞前の閲覧は非推奨です。

 

君がネタバレを気にしないと言っても私が気にするので、できたら先に映画を観てね。

あと、これの前に完成披露で観た段階で本作に関する長文お気持ち感想ブログを先に書いているので、よければ先にこちらをご一読いただけますと幸いです。

むしろこちらのほうが私の感想としての本題!!

↓これです

naru-di.hateblo.jp

 

そしてここから先に記すのは、あくまで私個人が映画本体だけを使って行った解釈(パンフもまだ読んでないぞ!)なので、制作サイドが実際のところどう意図していたかどうかとは、まったく関係がない(そしてこれは私の感じ方であって、それによって他の見方が否定されることはない)ということだけ、切り分けよろしくお願いします。

合ってても違っててもいいのよそんなことは。個人が何を見出したかなのよ。それと別として制作サイドの裏話も大好きよ。

 

■いきなりエンドロールの話

いやもう1回目観終わったあと「え?????」しか言えなかったんですけど、そのまま2回目を見た結果、このストーリーの中でも、いくつか選択肢がある中で、あえてこれを出してきたのは誠実以外の何物でもないなぁ思ったので、悲しさも寂しさも含めて晴れ晴れしております。

あのエンドに向かうまでの布石が鮮やかで丁寧。

先に貼った別記事の通り、私はこの映画によって、『オーズ』が無辜の歪な欲望から解放をされたし、そうされるための企画だった気さえしていて、それを補強したのが、エンドロールの『Anything Goes!』なんですよね。

この映画、バラードアレンジのまま終わってもおかしくない。むしろそのほうが雰囲気としてはふさわしくもある。なのにバラードが終わったあとで、明るい曲調に立ち返って、オープニング映像が流れる。映像は初期バージョンで(バースいないんだよね)、その回の登場フォーム予習部分だけ、ちゃんと今回の映画のフォームになっている。

この曲が流れたときに、「あれこれエンドロール後にちゃっかり助かってた続きある?(でもそれ伊達さんで一回やってるんだよなぁ)」と思った程度には(なかった……)、ハレ感がある曲なわけですが、あえてそれを流すのは、これが単純に切ない終わりではなく、うーん、言葉にするのが難しいんだけど、充足感というか、肯定的というか……けしてマイナスな終わりではないんだよと、際立たせる意図があったように感じています。(寂しい曲で終わると後味が重すぎるとかそういうシンプルな理由かもしれないけれど)

ナイーブな感傷からオープニングに戻って、それでいて単純に巻き戻してリセットされるわけでなく、今回の映画の内容がちゃんと取りこまれているというのは、すごく象徴的なエンドロールだなぁと思う。

 

■丁寧な再話と対比と再現性

いちいち言わないでも皆わかってると思うけど、今回の映画、とにかく対構成での再話が多い。映司とアンクが入れ子になっているだけでなく、バース組の関係や比奈との関係も本編と対になっていて、それがそのまま違和感にも、成長や変化の感受にも転じて、空白の期間を想像させるのがおもしろい。

また、よく似ているからこそ、差異が明確になり、関係性を補強する。

 

・信吾を助けるために憑依するアンク

 本編を踏襲しているようでいて、アンクの意図が真逆になってる時点で、あっもうこれおもしろい映画だってわかるの最高。

 あと跳んで最後のほうの話するけど、後藤がアンクのことを「仲間だ」と言い切るのも熱かったですね。後藤くん、レギュラーメンバーの中では一番アンクに対して心の距離があった人なので。

 

・変わらないグリードたち

 変わったアンクに対して、グリードたちの関係性と行動は全然変わらないのも、対比として綺麗に機能してるよねと。本来彼らは最近急によみがえったので、変わらないのも当然である。アンクの変化は10年前に既に得ていた変化。

 

・夜の水辺でアンクの背にそっと頭を預ける比奈

 このくだり、本編だとアンクが出て行って、比奈ちゃんと映司くんがふたりでその不在を語るシーン(43話)を思い出す。お芝居も、光の感じも本当に素敵だった。

 ここ、相手が映司くんなら、比奈ちゃんは多分、頭を預けるほどの寄りかかりかたはできないと思うんですよね。かなり踏み込んだ意味が生じてしまうので。相手が(お兄ちゃんの身体だという点も含めて)アンクだからできる。シーン全体の良さと相まって印象的。

 それから、テレビシリーズのオープニングで、布ごしに比奈ちゃんがアンクを抱きしめるカットのことも想起される。オープニングだと、アンクを通して「お兄ちゃん」を抱きしめてるようなニュアンスだと思うんだけど、ここでは確かに「アンク」に寄りかかっていて、これも素敵な対比だなぁと思います。

 

・後藤変身/伊達サポートのバース組

 本編でも見たかったけどギリギリ見れなかったやつー!!

 今になって見れるとは感無量。欲を言えばタンデム銃撃戦が見たかった。10年前から言ってるけどまだ言う。スピンオフに期待。(無理だと思う)

 伊達さん医者のくせにこの状況かつ生身でバリバリ第一線で戦ってるのそれでいいんか(この件は後述)という話もあるんだけど、伊達が後藤のサポートにまわるの、本編でもう死んでもいいくらい(死ななかったけど)後藤の成長(と自分の信念の継承)に満足していた描写が活きてくるし、それが10年経って回収されるのは胸が熱い。

 スーパーヒーロー大戦で「後藤ちゃんについてくよ!」って言ってる伊達さん地味に好きなんですよね……。ちゃんと役割を引き継げたということなので……。社会人には引き継ぎがなにより大事なので……。私は里中も含めたバース組を通して描かれる、彼らの社会と個人の折り合いのつけかたがとても好き……。

 

・最終回と対を成すラストスパート

 これはもうあえて書く必要ないでしょう。さすがの田崎演出。涙でマスクだめになるかと思った。いやーーーーーーーーずるい。ずるすぎる。こんなのずるい。他の監督がリスペクトの上でこの演出をしていたとしても泣けるけれど、田崎監督ご本人が重ねて演出されているという事実で胸がいっぱい。
 そして「映司とアンクと比奈が三人で手を繋ぐ」を最後にあんな形で回収されるとは夢にも思わず……。あれ本当に見事だったな……。びっくりしちゃった……。本編では決戦の前に手を繋ぎ、今回は後で繋いでいるのも対称だなぁ……。

 

他にも書き出すのも面倒なくらい本当にいろんな再話と対比があって、見どころが尽きない。

 

■「命を賭ける」ということ

テレビシリーズでは、伊達が映司に「おまえは命を賭けてさえいない」と諭すシーンがあって(32話)、これは当時映司が自身の生を軽視して投げ出しているからなんですけれど、今回は伊達がゴーダに対して「命を賭けてでもおまえを止める」というシーンがあって、これをフックに前者を思い出させる機能を果たしているの、そしてそれが先の展開に対して大きくアプローチするの、ずるいな~~~となる。

この映画、命を賭けられなかった映司がきちんと命を賭けて、更に己の欲望に直面する話なので。

伊達は己の命に(この世界で生きることに)ちゃんと執着したうえで、それを賭けられる人、というのはテレビシリーズ本編からそうなんですけど(38話)、「医者の仕事はまず自分が死なないことだ」って言ってた彼が(これは32話)、今回は雰囲気からして(尺の都合とかいう話は置いておいて)、もう医者であることを半ば捨ててる感じなのが、戦況のひりつきを一層感じさせるし、(特に映司を見失った今)唯一のライダーとして戦う後藤を、けして一人にさせない意志を感じてぐっとくる。(自分は一人で生身で前線に残るくせに)(ほんとそういうとこだぞ伊達明)

あとちょっと話がそれる余談だけど、放送当時から映司とアンクのオーズ組にはCarpe diem的な、伊達と後藤のバース組はmemento mori的な側面があるなぁとも思っています。伊達はいつだって、自分が死んでも世界に残るもの(自分が残せるもの)のことを考えている。

 

■藤田先生

たとえ顔を見れなくても、この世界のどこかで生きててほしいな。もし伊達があんまり医者をやっていないとしたら尚更。

 

■ゴーダという名の“わたしたち”

アンクに対して、あの頃の服を「そのほうがらしい」と言って渡し、あの状況下でアイスを用意し、メダルを受けとって「これやってみたかった!」とはしゃぎ、「あれやってよ!」とはしゃぐゴーダ。これ、”わたしたち”じゃん……。視聴者じゃん……。

そのゴーダが暴走するのも、なんだかいろいろ汲み取って解釈したくなってしまう……。

ゴーダの名前は『強奪』からとってるのかなと思うけれど、ゴータマ・シッダールタの響きも頭をよぎってしまう。(まあこっちはタが濁らないんですけど)

それはそれとして渡部秀さん芝居上手すぎやしないか。今回実質何役やってるの。「火野映司なのに眼だけが火野映司ではない」演技の精度が高すぎてゾッとしちゃった。

 

■小ネタ

比奈ちゃんが魚焼いてるシーン、立て看板に『臨時クスクシエ 本日のこんだて:釣りたて焼き魚』みたいなことが書いてある。

配給なのか、店として売ってるのかまではわかんないけど、ここはクスクシエなんですよという知世子さん(と比奈ちゃん)の包容力とたくましさを感じて好き。

あと鴻上ファウンデーションの建物は地下27階とかまであって(もっとあるかもしれない)どう考えてもそっちに移動したほうがいいのに会長相変わらずあのガラス張りの会長室にダンボール貼って居座ってるのも好き。

キヨちゃんはパンフ見てからやっと見つけられました。愛だね。

 

■人の欲望=生きるエネルギー

さて本題だ。

物語の終盤、「どうして死んだ」というアンクの悲痛な問いかけに、映司は苦く笑って答える。

映司「助けられるんだったら、手を伸ばすだろ?」

アンク「自分の命を犠牲にしてまですることか?」

映司「それだけじゃない。叶えたい願いが、もう一つあった」

この一連の流れって、本編第44話で描かれてることに直結するんですけど、テレビシリーズ本編終盤でずっと問題になっていた「火野映司には自分の欲がない」に対するアンサーなんですよね。

あの少女に、かつて紛争地域で助けられなかった命を重ねて、今度は助けることができて、救われる部分があったのはもちろんそうだと思うんだけど、そしてその子を助けた理由は、「届く手があるのに伸ばさなかったら後悔する」からなんだけど、テレビシリーズ時点の映司との明確な違いがある。

それが「アンクを復活させたかった」つまり、「自分の欲望」=「生きるエネルギー」を、ちゃんと抱えていたこと。

直前のアンクの問いが「どうして死んだ」なので、“それだけじゃない“=「アンクを蘇らせたから」(その代償として)死んでしまった、みたいに聞こえちゃうんだけど(そして実際そういう側面もあるんだけど)、そういうわけではなくて、「映司は女の子を助けたかったけれど、だからと言って死のうとしたわけじゃなかったし、死にたくなかった」ということの示唆がこの台詞だと思うんですね。手の届く先の命を助けられたことで、満足して死んでいったわけじゃない。

映司は死に瀕した最期の瞬間、どうにもならなくなったとき、「アンクに会いたい」と思っていた=この世に未練があった=強く「生きたい」と思っていた。(そして、ここに至って初めて、それを自覚したのではないか)

生きたい、というのは、この世界に対して希望を持つ、この世界に対して諦めを持たない、ということだと思っているんですけど、かつて世界に諦めを抱いて乾いてしまった火野映司が、ちゃんと自分の個人的な欲望を持てた、この世界で生きたいと思えていた、というのは、アンクと再会できたこと以上に、めちゃくちゃ切なくて、めちゃくちゃ光に満ちていて、めちゃくちゃ巧みな展開に思われて、泣きじゃくりながらため息が漏れる。

映司は「アンクを蘇らせるために死んだ」のではなく、「彼は死の間際、アンクを蘇らせるほどに強い欲望(生きる希望)を持っていた」「だからアンクは(命ひとつすべてを賭けるほどに強い)その欲望に呼ばれて蘇った」という見せかたは、オーズが辿り着く先として、ひとつの強さを持った選択だなぁと思います。

今回の脚本は毛利亘宏さんだけれど、改めてすごく本編を読み込まれたんだろうなと思うし、この展開って、オーズメインライターの小林靖子さんが過去に書かれた『仮面ライダー龍騎』において「最初からずっと『戦いを止めたい』と思っていた城戸真司が、他のライダーたちとの戦いを通じて、社会通念や倫理感としてのそれではなく、自分の純粋な願い、エゴかつアイデンティティーとしての、意志を持った『戦いを止めたい』に辿り着く」流れに通じるものがあって、たぶん小林さんなら今回こうは書かないかもしれないとは思うんだけど(笑)(これはよろしくない言及の仕方だぞ!)、『オーズ』が辿り着くべくして辿り着いた展開だなという説得力があって、私は全然飲み込めてしまったんですよね。

先刻触れた本編44話で描かれていた、映司に必要なこと「自分の欲望を取りもどす」、そして「それはエネルギーを持って旅に出ることではないか」という話が、両方回収されている。共感するかしないかは人それぞれだと思うけれど、展開として納得させられるだけのバックグラウンドと目配せがある。強い。

そんでさ〜〜〜〜〜これやろうと思えばアンクが映司の身体に取り憑いて二人で一つになって現実世界で旅に出てエンドもできる展開じゃないですか。だけどそうしなかったのめちゃくちゃ誠実だと思うんですよね。個人的に。(エンドロール後、アンクが映司の身体を使う選択をしたとして、そこにはもう映司の魂はいないことを含めて)

そもそも映司が死んだのはもうあの女の子を助けたあの瞬間であって、そのあとはボーナスタイムというか、心象風景みたいなものとも捉えられるし(映司がアンクに会えて満たされたのはあくまで「死んだあと」だという解釈)、その辺の揺らぎも巧いなぁと。

今回アンクを突き放したのは映司のほうなんだけど、あの日「これ以上なく満足して」、映司を置いて「死んで」いったアンクは、あの時点において誰よりも映司の気持ちに寄り添える存在でもあって、だからこそ、映司の意思に反してまで、「二人で生き延びる」ことは選ばないし選べない。安易にわかりやすいハッピーエンドじみたものを選ばないの、せ、誠実〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!だと思う。個人的に。(というのは、私は一度失われた生命はそう簡単に蘇らせれるもんじゃないし、してはいけないと思っているので)(オーズの中でも楽して助かる命はないと散々語られているし、「死」でもって「生命を得られた充足とその重さ」を反語的に語ったアンクに対しての敬意と畏怖を含むので)

なによりオーズって、テレビ本編自体が「映司とアンクの概念としての生死が逆転して終わる(アンクの死によって映司が人として生まれ直す)」構造になっている(作品の俯瞰的な構造の話であって、物語上の因果律の話ではないですよ)上に、「絶対分かり合えない思想を持った存在同士が、その状態のままで折り合いをつけて、個が個のままに相互理解と補助を行う」というすごく社会的な行動理念がベースになっている話なので、二人で一つになっちゃうのが違うのはわかる。今回ものすごいニコイチだったバース組はなんなんだという話は残るけど。*1

 

■総括すると

もちろん、今回この話を拒みたい人も、受け入れられない人もいると思うんですけれども。

この映画ができたのは、できてしまったのは、テレビ本編の終わりで飽きたらず、その先を見たいという我々の欲望が結実したからだし、望まれなければできることもなかったのに、我々が望んだからこうなったの、最高に『オーズ』だなと思います。

現実世界の現象そのものが、この作品をダイレクトに象徴することになっていることが、語弊を恐れずに言えばめちゃくちゃ面白くて、楽しくて、オーズのこと、制作陣のこと、大好きだなぁという気持ちを噛み締めている。

あと何回観に行こうかな、行けるかな。スピンオフもとっても楽しみです。

 

 

【追記】知らない間にちょっと読んでもらっていたので言葉足らずだったなというところとタイトルを修正しました(3.21)

 

*1:これ後程パンフ読んだらなんとなく理解できたので解決しました