そのひのことごと

平和に生きたい個人の個人による覚書なのでできれば優しくしてほしい

映画『ハケンアニメ!』レビュー 繊細でない世界を、生き延びてしまったあなたと。

今からここに記すのは、どうしようもなく個人的なラブレターである。

 

ハケンアニメ!』は、秀逸な映画だ。

 

映画としてきちんとパッケージングされていて、思う以上に幅広い層が、胸を熱くし、楽しめる作品だ。「業界モノ」「お仕事モノ」「偏愛モノ」あるいは「バディモノ」? 人によっていろいろな見方ができると思う。

それでも、あえて書こう。これは万人に刺さる作品ではない。

アニメ業界を題材に、想いを形にすることの過酷さ、切実さを描きながらも、それらは所詮、綺麗事であり、ファンタジーだ。ドキュメンタリーではなく、デフォルメされたフィクションであって、受け手によっては、「古い」、「リアルではない」、「誠実ではない」とさえ、言われることもあるだろう。

原作の初出が10年前であることを、映画の制作に7年かかったことを抜きにしたって、この作品を素直に楽しむためには、現実にノイズが多すぎる。

引っ掛かりは、作中の「覇権」の指標が、今更「視聴率」である、なんてことに留まらない。アニメ業界の、映画業界の、そして職種を問わずあらゆる業界においての、労働問題を、ハラスメントを、そして今現在まさにこの映画の制作元でもある東映が、労基署から是正勧告を受けていることを、知っている。いちファンとして、社会の端の労働者として、容易には言葉にできない感情がある。

それらを切り分けたとしても、言いたいことはいくつかある。序盤のテンポはもっと良くできた気がするし、オマージュはわかりやすくも若干気につくところもあるし、描写の意図が届きづらいところもある。万事が万事、満点だとは言いきれない。
私の目には、とても誠実に、丁寧に映っても、批判でもって打ち返されたときに、受け切れないところが、いくつかある。

それでも。

この映画がここには届いたんだ、貫かれたのだ、少なくとも私には、と、大声で叫んで傷つきたくなる。その傷でもって愛を伝えたくなる。そんな威力が、この作品にはある。刺さらない人には刺さらなくても(それは決して悪いことではない)、これ以上様々なノイズを受け取る前に、刺さる誰かに届いてほしいと、願ってしまう。

この物語の核にあるのは、実は、「好き」を貫くことでも、「仕事」のありかたでもなく、フィクションに縋ってまで、この現実を「生きる」ことへの肯定、そしてそれを他人に願い、祈ってしまうことへの業と希望で、この作品への想いを叫ぶことは、今まで自分を支えてくれたフィクションすべてと、それを送り出してくれた人々への、愛を叫ぶと同義だと思うからだ。

 

そもそも私は辻村深月の原作が、ぐっさり刺さっている側の人間だ。だから映画単体の感想として、偏りがあるのを自覚している。それでもこれを書いている。

原作の物理的な厚みを圧縮する前提で、映画も相当に巧みだったが(原作が単純な設定でないところを、あえてシンプルな対立軸とし、それでいて宗森と和奈のパートを完全にはオミットせず、瞳への共感性を高めつつ作中の「キャッチーな肩書き」の文脈を補強するのに元公務員の属性を付与し、オリジナル要素であるカップ麺のくだりを象徴的に織りこみ、そこからあの終わり方に持ちこんでいたのは、映像として飲みこませるための再構成として、ものすごく的確だったと思う)、原作はさらに丁寧で、かつ、ファンタジーである。

労働環境、技術に対する報酬、ルッキズム、和奈がデートを投げて仕事に来た背景etc、「そこってどうなの」と思う部分について、作中ではかなりが言及されている。その過酷さ、シビアさを描きながらも、単純な搾取の文脈にならないよう調整がなされ、ときに都合がいいほどに「ちゃんと」している。

現実もそうあって欲しいバランスがとられた物語は、所詮フィクションだし、甘い綺麗事でしかないと、嫌悪になりうる部分を孕んでいる。

それでも彼女の文章に突き動かされてしまうのは、そんな瑣末なところ(とあえて言おう、そして、フィクションぐらい理想的でご都合主義でなにが悪いんだ、とも叫ぼう)で揺るがない芯があるからだ。

原作を数ページ読めばわかる。彼女は「知って」いる人だ。

誰かが生んだフィクションが、所詮現実ではないことが、世界の色を変えてしまうことを。人生を塗り替えてしまう瞬間を。それがどんなに個人的で絶対的で絶望的で幸福で辛くて圧倒的で逃れようがないかを、「作り物」の力を、知っている人だ。

 

学生時代に辻村深月と出逢った私は、創作を諦めた。『ぼくのメジャースプーン』『スロウハイツの神様』。私が書きたかったことを、誰かに伝えたかったことを、彼女が全部書いていたからだ。未来の自分が書いたのかとさえ思った。

これが先に世に出ているのなら、私が書くことは残っていない。どうしてこの感情を、私だけのものにさせてくれなかったのか。私に言わせてくれなかったのか。恨んで、憎んで、焦がれて、救われた。嘘だ。見栄を張った。今もちょっと憎んでいる。愛憎という言葉は、私が彼女に向ける気持ちのためにある。

それでも読むのをやめられないのは、やっぱりそこに、救いと希望があるからだ。私と同じ気持ちを持つ人が「向こう側」にいる。ちゃんと、「向こう側」に行けた人がいる。そして、今も「向こう側」に居続けてくれている。それを救いと呼ばずに、なんと呼ぼう。

彼女が書いてくれるから、彼女になれなかった私は、社会の片隅で、名もない労働者をやれている。

 

どうして、いじめなんて言葉で括らなきゃわからないかなぁ。わかりやすくしたいんなら、そういう理解でいいけど、ちょっと繊細さに欠けすぎなんじゃない? そんなところまで行かないような浮き方や疎外感が、世の中には確実にあるんだよ。

 

作中の『運命戦線リデルライト』記者会見における、 “イケメン天才監督” 王子の語り(なんて生易しいものじゃない)は、原作でも映画でも、鮮烈な印象を残す箇所のひとつだ。

ここに引用したのはフリでしかなく、この前後に展開される台詞の質量は、とんでもない。(映画ではその一部のみを抽出し、あえてさらりと描いている)

そしてそれは、発したのが王子千晴だから、もっと言えば、「向こう側」に居続けて、直木賞作家という肩書きさえ獲得した辻村深月が書いたからこそ、上滑らずに届く言葉だ。「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」と歌ったのが、誰もが認める国民的トップアイドルSMAPだったからこそ、響いたように。

彼女は、「知って」いる人で、それを抱えた上で「向こう側」に辿り着いて、今も残り続けている人だ。

 

生きるのに向いていない、と思っていた時期がある。正直、今も、思っている。

死にたい、までの積極性を持てずに(そう思ったこともあるけれど)、生きていたくない、と、生まれてこなければよかったと、明確な理由もなく、思っていた時期がある。それは今振り返れば、思春期の一言で済まされるものかもしれないけれど、そのまま脆弱な首を絞めて、呼吸を止めてしまいかねないくらい、切迫したものだった。この理不尽な世界が、生きるのに値する場所だと思えなかった。

だけど、ある日、私は出逢ってしまった。ある作品に、フィクションに。

それはアニメではなかったけれど、圧倒的な力でもって、世界の色を変えてしまった。この世はどうにも理不尽で、暴力的で、無慈悲で、どうしようもないのに、生きるに値するのだと、思わされてしまった。「あなたは生きていい」という許しではなく、「この世にはずたずたになってでも生きる価値がある」ということを、身体の真ん中に刻まれてしまった。

それで私は生き抜いてしまった。そしてまだ生きている。あの頃よりずっと繊細さを失って、それでもまだ、もがきながら。

そして、それをこの世に送り出してくれたのが、東映だった。

だから余計に、という部分は、きっと多分にあるけれど、この作品を観ながら、私はどうしようもなく泣いてしまう。涙腺を開かせているのが、どんな感情かもわからぬままに。オートマチックに。ひたすらに。マスクは最初につけていたひとつがだめになり、ポケットティッシュを使い果たした。

他でもない東映が、あの原作を、物語の核を損わないまま、丁寧に、誠実に、命懸けで、この映画にして世に出してくれたことに、わけもなくどうしようもなく悔しくなりながら、あらゆる感情をめちゃくちゃにしてしまう。

「フィクション」だけに救われたわけじゃない。私はあの日あのとき、「これを作ってしまう人たちがいる」ということに救われたのだ。希望を見たのだ。「作り物」の先には、いつだって現実に「人」がいる。あのとき、魂を、身体を、心を、命を削って、あの作品を差し出してくれたあなたたちのせいで、今この作品を世に送り出してくれているあなたたちのせいで(そう、それを「おかげ」とは言い切れない。いまだに)、私は生き残ったし、今も生きている、と叫びたくなる。この「繊細でない」世界の上で。自分勝手に、必要以上に、傷つきながら。

 

脚本の妙は前述の通りで、キャスティングの、そして芝居の、なんと素晴らしいことか。原作のキャラづけから調整されているのに、あてがきだったのではないかと思わせるような強さ。誰かに言及してしまえば、それ以外の人に言及しないことが自分で許せないほどに、端々まで皆素晴らしかったのだけれど、柄本佑さんはとんでもなかった。恋に落ちるかと思った。今まで散々いろんな作品で拝見してきて、その芝居に動かされておいて、今????と自分で思った。

中村倫也さんの王子は「ここに本物がいたよ」と思ったし、吉岡里帆さんの瞳を軸として主役として置いたのは大正解だし、尾野真知子さんの香屋子も、原作から出てきたみたいだった。大変申し訳なくも、個別に紹介できない方々を含めて、こんなパーフェクトな配役ある?と痺れた。

肝心のアニメに関しては、ここ何年を語れるほどの数を追えていない負い目があるので割愛するが、観れば言葉はいらないだろう。(文庫版に収録の、辻村先生と新房昭之監督の対談を読むと、更にバックグラウンドの理解が深まるだろう、ということだけ記述しておく)(あとこのインタビューも置いておこう:映画『ハケンアニメ!』原作 辻村深月インタビュー アニメ監督が託す葛藤とは - KAI-YOU.net)10年古いなんて言われたら、あなたの想像力はそれくらいで怯むものなのか?と言い返したくなる。

私は今、斎藤監督には申し訳なくも、リデルライトの話をしたくてしたくてたまらない。原作でもど真ん中に刺さったあの台詞を、劇場で体感する日がくるとは思わなかった。1クールどころか1年番組の最終回を見た気持ちになった。エンドロールの『エクレール』の軽やかさと爽やかさも、日に日に愛おしさが増していく。

 

これだけ言葉を尽くしても、作中でいう「100のうちの1」、その100の一部にさえなれるかはわからない。むしろ、なろうと思うのも烏滸がましいというか、正直、刺さらなかった人に(何度も言うが、それは決して悪いことではない)とやかく言われるくらいなら、これは私だけに届いていればいいです!!!という気持ちさえある。うるせー!!私には刺さったんだよ!!!私以外の誰にも貶させない!!!!!だけど、同時に届いて欲しいのだ。私でないところにいる私に。そして届かせることで証明したいのだ。私を生かしてくれた、生かしてしまったフィクションを作ってくれた人たちに、その事実を。

 

そして映画が刺さった人には、ぜひ原作も手に取ってほしい。原作では更に甘くない、それでいて胸に突き刺さり腑に落ちるような「覇権争い」の結果が描かれているし、映画ではチラリとしか描かれなかった(それでいて良く機能していた)「聖地巡礼」「町おこし」の背景にまつわるストーリーが描かれる。ここも描かれるものがほんとすごいんだ。

綺麗事でも、ありえないでしょと思いながらも、笑って受け入れて夢を見たくなる。だってこれはフィクションだからね。実家に送っちゃってたから文庫本買いなおしたら、まだ第一版だったので失神しそうになった。映画刺さった人は買って読んで。(二度目)

 

最後に、WEBを眺めていて目に入った、本作に関する中村倫也さんのインタビューを紹介しておこう。

中村倫也インタビュー【後篇】「犠牲なく美しいのが、一番いい」日本を牽引する俳優が“自意識”を語る

ずっともがいてもがいて、もがいた先に生まれるものもある(中略)それをちゃんと睡眠時間を確保してみんなでやれたらいいですよね。

マジでほんとそれ。