そのひのことごと

平和に生きたい個人の個人による覚書なのでできれば優しくしてほしい

映画『すずめの戸締まり』レビュー もとい、いまだ思春期のミドサーの話

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(公開翌日近江屋洋菓子店にアップルパイ買いに行ったら早速ロケ地見に来た人みたいになってしまった写真)

引くほど長くなったので具体的な映画のシーンの話だけ読みたい人はここを押してそのあたりまで飛ぼう

新海作品と向き合うのは難しい。作品数で言えばなんだかんだ結構観ているほうだと思うのだけれども、刺さるか刺さらないかはまちまちだし、刺さったとしてその映画についてではなく、それを観て想起された自分の人生ことばっかり考えているので、その作品のことをどう思っているのかが全然わからない。

とはいえ、今回自分の人生だけじゃなくて作品の話をしているので、いい映画だったんだろうなという気がする。

 

 

「ネットで政治と宗教と野球の話はするな」という決まり文句もやや古くなって久しいが、顔のいい男こと芹沢や草太たちも通っているのであろう敷地でキャンパスライフを送っていたころ、「文学部で村上春樹新海誠の話はするな」というフレーズがまことしやかに囁かれていた。

当時私は『秒速5センチメートル』がぶっ刺さっていた側の人間だったのだが、どうやらそうでない人間のほうが多いらしいぞということに気づいたのが、文学演習でのことだった。

討論は荒れに荒れ狂い、普段温厚な教授が、学生らの態度に少々苦言を呈するほどであった。

それから数年の時が経ち、私にも「理解った」。

教室で「発展性がない」とか「内向的」とか「オナニーに過ぎない」という言葉までもが飛び出す論評の数々(それもそれも充分に「大学生的」ではあったのだけれども)の意図も、共感の有無が分かれる理由も、共感があったとして、その感情を是とするかどうかといった葛藤も、他の作品を観たり、年を取るにつれて飲み込めて、「そりゃ荒れるよな」という境地に至った。その頃には私の過渡期も終わりつつあった。純粋に『秒速~』を観て泣けていた時期を通り過ぎ、言葉にしづらい恥ずかしさや、居た堪れなさを覚えるくらいになっていた。

社会人になってしばらく、惰性のままに『君の名は。』を観て、「えっ私たちの知ってる新海誠じゃないが……」と思い、『天気の子』でゼロ年代のノスタルジーとその先に大爆笑し(上記の通り、映画と全く関係ないところで自分の人生を振り返って泣いてもいた)、今回はどうなるだろうなぁとか言いながら『すずめの戸締り』を観に行って、もしかして私はやっと素直に新海誠のファンを名乗れるようになるのかもしれないと思っている。

 

■そもそもなんで受け止めかたが変わるのかというと

新海作品って、自分が子ども(これは幼少期から思春期くらいまでを広く指す)のころ、子どもであることを理由に(と、本人は自覚していなかったりする)、人生や世界に対してなんらかの強い諦めや絶望を感じて、それを成長してからもずっと引きずり続けていることへのシンパシーが根底にある気がしている。

それは明確な挫折というよりも、ずっと観念的で根源的なもので、その感触が「わかる」か「わからない」かでまず分断が生まれてしまうのだろうと思うし、なにより性質が悪いのは、これを「わかる」ことが良くて「わからない」のが悪いということはまったくなく、むしろ「わからない」ほうが「健全」なのでは? という疑心さえあり、それがますます個人の感情や評価をこじらせていく。

あたりまえだが、人がなにかを感じたり感じないことに正解もなければ、健全かそうでないかなんて判別する必要もなく、これは自意識の問題である。

早く大人になりたい、と思っている自分が一番子どもだったな、とか、そういう話。

早く大人になりたくて、だけど自分は大人になんかなれないだろうと思っていた。反発でも、拒絶でもない。そこまで辿り着けないと思っていた。世界はいつだって理不尽だったし、自分がなにに傷ついているのか、なにに憤っているのかもわからなかった。別に死ぬ気はなかったけれど、大人になってなにかをなせているイメージなんてなかった。さすがに20歳までに死ぬとは思っていなかったが、30歳まで生きていないだろうなという気がしていた。今もばりばり生きているけど。

 

■思春期の自分を置き去りにしてきたことへの罪悪感

この言葉をこんなふうに使うのは適切でないとは思うのだけれども、「思春期という現象に対峙していた自分」に対して、ずっとサバイバーズ・ギルトのような思いを抱えたまま、生きてきたところがある。

あんなに必死に真剣に「世界」と対峙して、いろんなことに傷ついて、もがいて、なにかの意味を求めようとして、見つけることができなくて、それに疲れて苦しんでいた自分を置いて、あの苛烈な季節を生き残ってしまった。

生きる意味なんて知らなくたって、大人にはなれてしまう。なれてしまったことに、戸惑いがある。

あの頃の自分は、今もきっとなにひとつ納得も救いも得られないまま、ただただ時期を過ぎたというだけで、息ができるようになってしまった。

そのことに対する負い目がある。あの頃の自分を、助けられないままでいる。その感情に、今の自分を侵食されてしまうことさえある。「思春期だったね」と笑って過去にしてしまえばいいことなのに。おそらくそれが、健やかで明るくて、生きやすい人生だ。当てこすりではなく、本心でそう思っている。

実際、もうあんなに瑞々しい感性など持ち合わせていないのだ。ほどほどに鈍くならなければ、社会人をやれないし、他者との適切なコミュニケーションだってとれやしない。鈍くなる、というのは悪い意味で捉えられがちだけれど、必ずしもそうではない。情報の取捨選択をして、余分な意味を読み取らず、不要な疑心暗鬼から自分を守って、心身を維持する。

だけどたまに、懐かしいものに触れたり、心を揺らす景色や作品に巡り合ったとき、「あの頃」の揺らぎを思い出して、身動きが取れなくなる時がある。

新海誠の作品群は、そういう感情や人々に寄り添うものだったと思う。

人生のどこかに心の一部を置き去りにしてしまっていること、世界を変えようとして変えられない(変えられるわけがない)こと、それを今も引きずっていること。だけど、そんな感情が「存在する」ことの提示でもって共感と癒しを与えながら、その先を示すことはあまりなされていなかったし(だってそうなると寄り添えないからね)、過去と上手につきあえている人々には、あまり刺さらないでいたのだと思う。

そういう背景をもってしての、『すずめの戸締まり』だ。

 

■被災者であっても、そうでなくても

映画の序盤、あまりに勢いの良いすずめの行動に、若干の戸惑いを覚える。

あんな九州の田舎町(という表現は、自分も似た土地で生まれ育った来歴によるものなのでご容赦願いたい)で、それもまっとうに育ったらしい女子高生が、身一つで危うい旅に走るのは、正直、捨て鉢すぎてハラハラする。もちろん作品やキャラクターによってはありうるのだけれども、すずめやその保護者である環の性格や関係を見ても、この作品としてアリなのか? という困惑が、やがて明かされるすずめの来歴と、「死ぬのなんか怖くなんてない」背景によって、納得に変わる。

正確な意味での『サバイバー』であったすずめは、この世に執着を持っていない。

死にたいわけではない。けれど、死ぬのなんて怖くない。育ててくれた環に感謝しながら、その献身への罪悪感や、愛=人生の一部を背負うことへの重さも感じている。

そんなときに、人生を変えるような現象に直面したら。自分たちが災害を未然に防ぐことができたら――変えられるわけのない理不尽な世界に干渉することができるとしたら。

行ってしまうだろうな、と思う。先のことや、身の危険なんて恐れずに。

 

友達もいて、将来のこともきちんと考えて勉強をしていて、それでも世界に対する諦観を胸に、生に対して執着を持てないでいる。

そういう時期があった人にも、ない人にも、すでに乗り越えた人にも、彼女の心の機微は等しく届くはずだ。

『被災と喪失』という明確な軸を通したすずめの姿には、より共感性が高く、普遍的な意味が宿っていた。そこには当然、前項で語ったようなやるせない気持ちも巻き込まれている。

彼女の執着の薄さの大本が震災の経験に根差したものだとしても、マクロな視点で捉えたとき、この感傷自体はずっと普遍的なものであって、すずめ個人やその事象だけに依存するものではないと思う。もちろん、この読み方によって、未曽有の災害や、その被災者の心的外傷を矮小化する意図はけしてない。強大に辛い経験を通して定着したすずめの大きな諦観に、平穏で幼い痛みさえもが内包されたのだ。

 

思春期の私は、そんなことあるはずもないと理解しながら、人生を変える物語との出逢いを望んでいた。教室の窓から外を見ながら、「ここではないどこか」に行きたいと思っていた。ちょっとしたきっかけがあれば、なにかとんでもない行動をしていたかもしれない。その気持ちを飼いならすために、多くのフィクションを求めていた。

特定の災害や、疾病や、事故や事件を経験していなくても、わかりやすい不幸や不運を抱えていなくても、この世界や生に対する執着を失ってしまったり、疎外感を味わうことが、人生にはある。特に子どもの頃には強くある。

この世に生きている意味があるのかなんて、今もわからない。

それでも、この映画には、そうやって彷徨う心をこの世に繋ぎ止めることを、深く、広く、願う想いが根底にあって、その土台をもとに、『震災』という大きなモチーフを抱えた作品だったのではないか思っている。当然、とんでもない誠実さが要求されることだけれど、それを自覚しながら、作品自体に大きな傷を作ることも覚悟のうえで、批判も是として挑んでいた気がした。

(私が見た中だと『特命戦隊ゴーバスターズ』『烈車戦隊トッキュウジャー』がかなり近いものを扱っていたと思うのだけれども、今回はより明確な地名と景色を出してきたところにヒリヒリした)

 

■パンフを読んでいないので頓珍漢なこと言ってたら目をつぶってほしい本編箇条書き

・宮崎の後ろ戸。予告でも確認できるけど、すずめが開ける前に少し開いているので時間の問題だったっぽい。それはそれとしてあのへんだと震源日向灘扱いだよなぁとか思ってしまい現実への侵食が心をぞわぞわさせる。
 災害を起こすものが、人の多い場所ではなく、人の心が離れたところから発生するの、人が過去の災害を忘れたら次の災害で被害が拡大することに繋がるのだろうな。

・すずめが要石に触れて「つめたい」と言うの、椅子の草太に触れて「あたたかい」と言うことの対比になっていると同時に、過去に環がすずめを見つけて抱いたときの温度との重なりにもなっているんだなというあとからの気づき。

・ダイジンの姿になった要石に、気軽に「うちの子になる?」と言っているすずめ。
 これあとになって環⇒すずめの台詞に被ってくることをフォロワーさんのツイート見て気づいて頭抱えた。

・前述のとおり、すずめの旅の始まりと過程、だいぶフランクに、身軽すぎる状態から始まってフィクションラインに瞠目してたらスマホ決済での進行に目からうろこがボロボロ落ちた。すごい。発明。

・このスマホ決済、「九州の田舎町に住んでいる未成年」が、「宮崎から東京まで行ける金額」が入った銀行口座を「個人の端末に紐づけてもらえている」という設定だけで、すずめがいかに品行方正に育ち、環と良好な関係を保ってきたかが伝わる設定になっている。すごい。
それくらいの金額が入っているということは、普段からある程度の自活を行っているのかもしれないし、もしかしたらお年玉とかをいれているすずめの口座なのかもしれないけれど、環の性格を見るによっぽど信頼関係がないと大きな金額紐づけないと思う。少なくともうちだったら絶対に許されなかった。しかも追跡のフックにもなる。うますぎる。

・すずめのフットワークの軽さと巻き込まれリアクションに戸惑いながらもスッと入っていけたのは鬼頭はるか先生で準備運動ができていたおかげだと思われるのでみんなドンブラザーズは見たほうがいいですよ(?)

・愛媛。泊まる場所をちゃんと環に連絡していることがわかるだけで、話への入り込みやすさが違う(それでもって長文メールで環の性格も伝わる)。徹底的なノイズ除去。最初に出会うのが同世代で、それをきっかけに~という流れも抵抗が少なくてすごく見やすかった。

・前後するけど、土砂崩れが改めて九州育ちの胸に刺さった。災害は地震だけではない。

・神戸。未成年をスナックで働かすな(皿洗いはとにかく表にはちょっと…!)というツッコミもありつつ、そういう緩さというのが現実にはある。その上で若さを指摘して「カウンターの外には出なくていい」と告げ、お酌もかわしてくれる先輩ホステスさん。この描写のバランス感覚よ……。
 あとここ、愛媛の民宿に続いて神戸のスナックも急に客が増えている。おそらくダイジンのご利益だったのだということは、後々になって何となくで察することになる。また、他の人にはダイジンが人間の姿に見えている ⇒ やろうと思えば擬態ができるのに、これまであえて猫として移動して、写真に撮られていたことを示唆している?

・神戸の後ろ戸=観覧車。平成ライダーのオタクである自分と名探偵コナンのオタクである自分が若干ざわつく。

・なにも持たない女子高生の一人旅、やっぱり危険な目に合わないか心配すぎるし、こんないい人にだけ会うことある? という気持ちと、フィクションでくらい人の善性を信じたい気持ちで揺らいでいたら、これ両方ともダイジンが良い人に出会えるよう調整していたのではという説を読んで「ああーーー!!!」になった。な、納得……。

・新幹線ではしゃぐすずめ、宮崎育ちの未成年~~~!!!!となって胸がいっぱいになる。宮崎は九州の陸の孤島。修学旅行はおそらく長崎・福岡か広島、行って京都。

・芹沢。先に観に行ったフォロワーが「神木隆之介の声がする菊池風磨みたいな男が出てきた」とだけ言うのを見て「そうなんだ……?」と思っていたら想定の5倍くらい菊池風磨さんみたいだったのでちょっと笑いそうになった。(※これは2016年版ドラマ『時をかける少女』の印象が強い人の感想です)
 芹沢の台詞を通して、草太が自分を大事にしないところがあるのが伝わってくるのもよいし、すずめより一足先に草太のほうがこの世に生きる意味を見出していたの(しかも喪失に瀕して)が明かされるの、後々効いてくるよね。

・神戸も含めて、すずめが椅子に座ろうとする・足場として使うのを性に絡めて受け取っている感想を多く見かけて結構びっくりしてしまった。否定するつもりではないのだけれど、個人的には真逆というか、キスするくだりも含めて、すずめが『椅子』を”物”として扱っていることが、コミュニケーションでもあり、草太の肉体の喪失に対する無邪気かつ無意識の適応であり、幼な返りでもあると捉えていたので……。

椅子、登場時は横倒しで放置されていたのを草太が立てるところから始まり、神戸の2階でこどもの遊び道具になって、神戸の1階で椅子としての役割を果たして、東京で次に進むための踏み台になっているの、象徴的だと思う。(後々「本当に大事にしていたのはいつまでだっただろう」という振り返りが入ることも含めて)

・東京の後ろ戸。すずめのダイジンに対する拒絶が今後の展開に関わりそうなの、なんか覚えがあるんだよなと思っていたけど十二国記の陽子と冗祐だった。改めて確認したらそうでもなかった。(なにこの無駄な覚書……)
 すずめはダイジンに「うちの子にならない?」と言ったことを覚えておらず、強く拒絶をするのだけれど、ダイジンのほうはその言葉=愛をもらって、すずめのうちの子になりたくて、役目を抜け出し草太に委ねて、草太の代わりのすずめに後ろ戸を案内していたわけで。それは後々明かされるわけだけど、このすずめ⇒ダイジンの拒絶が、そのまま環⇒すずめへの拒絶に被さってくることは、フォロワーの指摘で気づいた。うああああ。

・病室。「死ぬのなんて怖くありません」「草太さんがいない世界が怖い」
 ○○のために生きるのではなくて、○○がいる(ある)世界なら、生きることに希望が見い出せるかもしれない、その希望が途絶えようとするのは、それはそれは怖いことだ。この世に存在してくれるだけで希望が持てるなにかと出会えるなら、人は幸福。

・芹沢再び。そして環。ちゃんと探しに来る保護者~~~!!!!
 ところで現実において芹沢の大学には本当は教育学部が存在しない。現存するのは文学部教育学科である。なお池袋キャンパスは車通学できない。

ゼロ年代を生きてきたオタクは赤マルに弱い(諸説有り)
 今時電子タバコじゃないのは古い車や懐メロ好きなのとリンクしてるのかな。

・パーキングエリア。環とすずめの喧嘩。
 「私にはそれが重いの!」これね~~~~~少し前に親と喧嘩したときに言ってしまった(何歳????)(いや高校時代にまでさかのぼった喧嘩をしてしまい……)(思春期???)いやでもほんと人生には愛されれば愛されるほどに苦しくて放っておいてほしくてどこかに行ってしまいたい時期というのが存在したんだよ。
 環の言葉(外的要因によって吐露されたといえ)、すずめにはあまりに鋭すぎる凶器の数々なのだけれど、あの言葉が出てくるのはこれまでいかに彼女がすずめを大切に思って悩みながらも努力し続けてきたかの証明でもあるし、すずめの側にも、ショックの中に、直接本人から聞いたことでの安堵みたいなものだって、絶対存在したと思う。
 すずめが自分で「環さんの一番大事な時期を奪ってしまったのかも」と思ってしまっている以上(これが事前に提示されている丁寧さよ)、本音を隠されて綺麗事を並べられることでの、罪悪感や疑心は常にどこかに貼りついているし、綺麗ごとでごまかされた後に、意図せず偶発的に知ってしまったら、それこそすべてが信じられなくなる。
 子どもを傷つける言葉を肯定するつもりはないけれど、互いに感情をぶつけた上で「だけどそれだけじゃない」と伝えることに繋がるの、シンプルにすごくよかった。ちゃんとしていた。大人だってこんなもんだよ!の気持ちも、この年になればめちゃくちゃわかるので。

 大人だって未熟ないきもので、取り返しのつかないことを思ったり、言ってしまったりもするけれど、それってある意味あたりまえのことだし、たとえ取り返しのつかないことだとしても、そこで全部を諦めないで、逃げないで、向き合うことを描いてたの、すごく勇気をもらったな。

・「ここが、綺麗?」 この一言ですべてを伝えてくることの威力。

・すずめと環の自転車二人乗り。爆泣き。
 結局、大人なんてどんなに疎まれたって、子どもをこの世に繋ぎ止めることに必死になるべきだし、それはつまり子どもだった自分を救うことだし、子どもはどんなに大人を疎んだって、愚かだって、「子ども」を生き抜いて大人に辿り着けたならそれでいい。
 ということが、この環とすずめのくだりから、幼少期のすずめと今のすずめに接続して語られていく。構成上手か!?

・要石に戻ることを決めるダイジン
 すずめの子になりたかったダイジンは、すずめが草太の代わりに自分を犠牲にしようとしているのを見て、要石に戻る決意をする。
 すずめが「草太さんがいない世界が怖い」ように、ダイジンは「すずめがいない世界が怖」くなったのだろうし、このダイジンが「環の献身や犠牲を想って、彼女の人生から身を引いた場合のすずめ」のメタファーとしても機能しているの、もう、なんか、そんなのもう、すずめ…………。
 だけどそれでも、(自分がこの世を生きるために)、好きな人がいる世界を選ぶことの傲慢さと尊さ。そしてそれと前後して描かれる、草太への死への恐怖。生への執着。あなたに出逢えたことへの未練と希望。

君を絶望させられるのは、世界で一人、君だけだ。
 これは新海誠ではなく辻村深月の『ハケンアニメ!』の一節なんだけれども~~~~幼少期すずめを抱きしめて語る今のすずめを見て思い浮かんでいたのがこれだった……。あとドラマ『わたしたちの教科書』の最終回とかも頭をよぎっていた……。(似ているとかオマージュとかいう話でなくて、私たちは何度でもこの思いを確認したいという気持ちで)(まず全然似ていないが両方とも傑作なので見てくれよな)

 その渦中にいるときは、それは本当に、その先に辿り着けるなんて、信じられないけれど。綺麗事にしか聞こえなくても、今は耳に入らなくても。今を生きてさえいれば、必ず「そこ」に辿り着く日は来る。

 そしてこのメッセージは、かつて思春期に苦しんで、既に大人になった人間にとっては、「あなたや私はちゃんとそのその過程を『生き抜いて』ここまでやってきたのだから、相変わらず世界はこんなだけれど、この先もやって行きましょうね、行けるはずですよ」、という響きを伴って胸に落ちてきた。幼い自分を置き去りにしてきた苦しさへの共感の、その先が提示されていた。

 たとえすべてを救えなくても、いまだ世界に振り回されていても、あの時期を生き抜いてここまで辿りついただけで、私たちは充分、えらい。

 それで具体的になにかが解決するわけではないけれど、そういう肯定と祈りに満ちていたな~~~~とそう思う。

・「いってきます」「いってらっしゃい」
 ラストになってタイトルの「戸締まり」の意味が浮き立つことの美しさ。反転、というか、そもそも戸締じまりとはそういうものであることの理解。なにも言わずに旅に出たすずめがここに立ち返ることで、物語はむしろ終わるのではなく始まる。行くというのは帰るということ。民話的要素も内包していて、やられた感がすごかった。

・エンドロール。
 環と一緒に往路を辿って帰るすずめ。幼い日のすずめを救ったのは今のすずめだけれど、これから先、過去のすずめが未来のすずめを助けてくれるように感じられて胸が熱い。扉の外に飛び出して得た生きる意味、扉の内側で愛されていたこと、人生にはどちらもが必要だから。

 

最後に一応書いておくけど、この感想は私個人が自分の人生の感傷をベースにそういう見方をしたという話であって、「この映画はこういう話でしたよね?」という話ではないからね!(あと書いてないからといって恋の話や震災映画としての見方をしてないわけじゃないからね!) いちいちそんなこと書かないでいいのわかってるけど怖くて書いちゃう!

 

そんで観た翌日にアニメーターのおおはしさんのこのイラスト見て「環さんが連れて行ってくれるのはロイホ~~~~!!!」って鳩尾に刺さってしまった。

中学生の頃、どうしても学校に行きたくなくて車を降りれなかったとき(当時親の通勤に便乗して通っていたので……)、父親が仕事遅刻してまで連れて行ってくれたのがロイホのモーニングでパンケーキだったこととかを思い出し……。

結局新海作品に触れると自分の人生の話をしちゃうんだよなぁ!