そのひのことごと

平和に生きたい個人の個人による覚書なのでできれば優しくしてほしい

5月が終わる

日常をもっと気軽に書きたいと思って作ったブログなのに、結局身構えてしまって滅多に更新しない場所になってしまっている。

そうこうしているうちに長文を書く能力が減った。昔は毎日、息をするようになにかを綴っていたのにな。

今、「昔」という言葉を平気で使っている自分に少しびっくりする。

時間にして20年も前というのは当然「昔」なのだけれど、自分は齢35にしていまだに思春期を引きずり続けて生きており、大人になったようでなれていないまま、己の幼さに戸惑い、焦り、責めて……というよりは、いつか誰かにバレてなじられ、社会不適合者の烙印を押されるのではという恐怖に纏われながら暮らしているので、「昔」は昨日のことのようで、全然「昔」のように感じない。けど、昔は昔だ。

自分のことを幼いと思うのだけれど、幼さとはなんだろう。

社会の仕組みを詳しく知らず、だけどろくに知ろうとせずになんとなく生き続けてしまっていることとか、読んだことがない、見たことがない古典や名作が山ほどあるとか、それをタイトルとあらすじだけで知ったそぶりをしていることとか、どうしようもなくなったときに(実際たいしたことではないのに)親に縋りたくなってしまうとか、小さなことで傷つきやすく心を閉ざしてしまうとか、行き詰ったときに物事を放り投げたくなってしまうとか、具合が悪くなったふりして(もしくは本当になって)逃げてしまうとか、他人に何かを求めるくせにあまり与えられなかったりとか、空が青くていい匂いの風が吹いている日に、仕事なんてせずに外へ飛び出したくなってしまったりすることだと思う。

まあそれでも、思うだけで外には飛び出さず仕事をしていた。

今思えば、「すごく天気いいから、ちょっと空気吸ってきていいですか」って屈託なく言えたなら、それはそれで子供じゃないんだろうなという気がする。あるいは、なにも言わずしれっと抜け出してちょっと散歩して戻ってくるくらいのことしたって、それもそれで大人なんだろうなという気もする。

そのどっちもできない自分が、そこに正しさを見出してしまう自分が、嫌だし悲しい。

車窓から見る、水が張られたばかりの田園のきらめきとか、麦畑を薙いでいく風の匂いとか、通り雨の前の厚く膨れ上がるような空気とか、ホームに降りた瞬間に感じる冬の到来とか、そういうものが好きだった。授業中教室を抜け出す勇気はないくせ、心は外にあって自由だった。

そういうものを感じながら大切にしながら想い馳せながら生きていければいいのに、その鋭敏な感覚を持ち続けたままでは、世の中戸惑ったり、傷つくことが多すぎる。うまくスイッチを切り替えられればいいのに、それができない。健やかな大人はきっとそれができるのに、幼いままの自分はスイッチを切り続けることが大人のふりをすることだと思っていて、たまにその苦しさに耐え切れなくなる。そんなふうに思っていること自体が幼いと思う。

結局、大人とか子供とか、そういう言葉や取り決めに縛られて、勝手に苦しくなっているだけなんだろうな、とも思うのだけれど。

あのころ、自分が大人になれるなんて思っていなかった。大人になるということは無神経になるということで、幹が太くなることで、大丈夫になるということで、自分がそこまで生き残れると思っていなかった。

「今」も生きてるけれど、全然大丈夫じゃないよ。大丈夫じゃないけど、あのころよりは図太くなったのかもしれない。それがいいことなのかどうかは、わからないけれど。

結局私は、幼い自分を、これからも幼いままでいることを、誰かに許されたいのだと思う。誰よりも自分に。